おんたけさん、私の愛する山

それを実感したのは、初めてのおんたけさん登山で、息も絶え絶え、足がもつれるほど疲れ切っていた時のことだった。
 
山に行きたい、という強烈な衝動にかられたのは、二年ほど前だったか。
身も心も切羽詰まってきたとき、山に限らず、そんな衝動がわいてくることは今までにも何回かあった。
切羽詰まった思いは、衝動というパワーに凝縮され、行動のための原動力となる。
 
登山ルートを調べ、山小屋まで、自分の足でどれくらいの時間で到着できるか、すべて自分でスケジュールを立てるのは初めてのこと。
かなり不安でもあったが、夫をまきこみ、二人で登ることにした。


車で麓までやってくると、神社や石碑のようなもがたくさん目につき始める。
そして、この山は深い信仰と関係しており、半端な気持ちで登る者を寄せ付けないような厳しさがあり、身が引き締まる思いがしてくる。
そして、登山口につくと、鳥居の向こうに、威風堂々とした御嶽山が、鎮座ましましていた。
ついに来た!これが御嶽山。
山に向かって、かしわ手ふたつ、一礼して、意気揚々と鳥居をくぐる。
 
 
しかし、登山口からして、高度はすでに高く、歩き始めの緩やかな登りから、すぐに息切れ。
全く情けない。
日が暮れるまでに山小屋につくだろうか・・・・。しょっぱなから不安が脳裏をかすめる。
 
それでも登ること3時間あまり、足をもつれさせながら、一歩一歩、とにかく、このわずかな一歩の積み重ねで、てっぺんまで行けるのだ、と自分を奮い立たせ、と同時に、不安な気持ちも道ずれに、歩き続ける。

この「山に登ること」は、人生のプロセスに似ている。
 
風や、踏みしめる土や岩を感じ、渓流のせせらぎや鳥や木々の葉の擦れる音を聞き、目に映るすべての色を吸収し、一呼吸一呼吸、澄み切った空気を肺の隅々までに送り込んでは吐いて、とその循環を意識し続ける。

しばらくすると、自分のペースがつかめてきて、肺に入ってくる空気は、ただの空気ではなく、強烈な命のエネルギーを含んでいると感じるようになってくる。

そのエネルギーは、身も心もすべてを浄化し、枯渇していた命のエネルギーを肉体ばかりではなく、サトルな体にも充電し始める。
だから、疲れてきているのに、妙に元気になってくる。
 

そして、ああここまで来た、とはるか眼下に登山口を眺め、体を大きく開いたその瞬間のことだった。
山が私をやわらかく、力強く抱いてくれている、そんな妙な安心感のようなものに包まれた。
これっていったい何?
とても微妙な感覚だった。

それはまた、「登山はどんなにつらく苦しくても頑張って登るもの、達成するもの」、という登山トラウマの刷り込みから、「山を深く感じ、つながる喜びがあるから登るもの、プロセス自身を楽しむもの」、と切り替わった瞬間だった。
そして、気が付くと、高度が上がれば上がるほど、この世から遠ざかり、精神的な高みへと近づいていく、そんな感覚に魅了されてしまっていた。
 
山はとても危険で厳しく、恐ろしい顔をもっている。
けれど、こうして私という小さな人間を深く深く抱くような何か、山の霊力のようなものがやはりあるのだと、この時初めて知った。
このようなことが起こったのは、御嶽山という山岳信仰の山だったからなのだろうか。
 
それから私たちは、御嶽山にすっかり魅せられしまい、この2年間の間、通算5回登った。
同じ登山ルートでも、毎回全く違う顔を見せてくれ、怖くもあり、感動的でもあり。
そして、この山は近いうち噴火するかもしれない、といつも思って登っていた。
 
そして今回の噴火
・・・・・・。
ショックだった。7月に行ってきたばかりだった。
 
 
亡くなった皆さんの、ご冥福をお祈りします。
どうか迷うことなく、御岳の神々に守られながら、天国へ登れますように。