ファルコ・タラッサコ

 FALCO の伝記

ファルコ・タラッサコの人生の物語を語るとき、強烈に夢を信じた男であり、その夢に他の人を巻き込み、その人たちにも夢を与えたということが特筆できます。そしてその人生において、めきめきと頭角を現していった人物の物語といえます。

 

ファルコは、1950年トリノ区バランジェロに、ドヴィリアとジョヴァンニの一人息子として誕生します。

 

幼少時より、並外れた特性をもっていました。たとえば、傷ついた仲間の痛みをとるとか、彼らの遊びを幻覚や魔法を使って生き生きしたものにするとか(そういったことは何人かの友人たちや時々は彼の両親さえも驚かせました。)継続的に飽くことなく、自然の法則や超自然的な事柄の実験を行っていました。

 

彼にまつわる逸話の中でも、彼の母親の記憶に特に印象深く残っているのは、自分の手で造り出した小型の2つのミサイルを自転車に取り付けて疾走したことや、“逃げる”というエピソード。それは彼が洗濯機を両親についていくようにプログラムをしたために(!)両親は洗濯機から走って逃げなければならなかった、というものです。

 

1967年に彼の最初の本「私の16歳の詩」を出版し,続く1968年には「私の自殺の記事」という本を出版します。

 

1969年に少年裁判所に、親から独立するためには当時の規定では更に二年待つ必要があったにもかかわらず、成人とみなす許可を申請して独立します。

 

その年に最初の結婚をし、彼の二人の子、ヴァレリアとアドリアノが誕生します。そのころ彼は保険代理店を開業しましたが、イタリアで最年少の保険業ブローカーとなりました。彼の三人目の娘、ラエネは1999年に誕生します。

 

25歳のとき、数人の友人たちとともにトリノにホルスセンターを設立。すでに彼はプラノテラピスト、超心理学者、超能力者、催眠療法士などとして知られており、のちにダマヌールの共同創立者となる仲間たちとともにイタリア各地をまわり、数多くの集会に次ぐ集会を行います。

 

そして、のちに、彼らが真の彼らの使命だと感じることについて語ります。

 

それらは研究と実行に基づいた精神的な社会を創造することその社会の中では女性も男性も、人類と神々という存在や自然のさまざまな存在との新たなバランスを実験するといったことです。

 

彼の人生の物語によると、彼の使命ゆえに並外れたパワーを与えられ、気さくで親切な人を超越したカリスマ性があります。

 

ファルコの仕事は、2013年6月に肉体を残して旅立つまで、あらゆることから目を離さずにおこなわれました。

 

ダマヌールは25以上のコミュニティーの連合体であり,600人を超える市民が在住し、ダマヌールのセンターや共感者達は,世界中に広がって存在しています。

 

ファルコの約30冊の自筆の本、それらに加えて翻訳された本があります。セルフィカは、生きたエネルギーの交流を実現する知識です。ある物質の形(多くは銅線が使われる)と、セルフィカを用いる人とを結びつけます。

 

幻想を抱くような何千枚もの絵画ーセルフィック・ペインティングは、世界中の人に販売され、モスクワ,サンフランシスコ,ニューヨークで展示されています。

 

そして人類の神殿はカナヴェーゼにある山を手作業で掘り、ありとあらゆる芸術技法を用いて装飾された並外れた精神性と芸術的偉業です。この作業は、彼が青年期の頃にバランジェロの家族が所有する土地で一人で同様の体験をしたのち、ダマヌールの市民を巻き込んで行ったものです。

ホロスセンターを設立したのち、ファルコの人生はダマヌールの歴史と並行して駆け抜けます。

 

1977年にコミュニティー創立のアイディアをもち、上カナヴェーゼに最初の土地を購入、1979年12月に最初のコミュニティーの落成式を迎える。

 

1983年には「ゲーム・オブ・ライフ」と呼ばれる、人の内面を刷新するための新たな企画をたちあげます。この企画の中で、ダマヌール市民は動物名や植物名を採用することが可能となり、彼もファルコという動物名になります。

 

ダマヌールは緩やかな発展ながら着実に成長を遂げ、1992年にイタリアの検察庁イブレア支局が偉大な秘密(地下に建設した神殿)を発見した時点では、すでに数百人のメンバーが存在するようになっていました。

 

その後の4年間は、政治的・法律的な厳しい論争が続き、1996年に人類の神殿が法律安全基準を満たしていることが確認され、戦いが終わりました。

 

それを期に、ダマヌールは人類の神殿のおかげで国際的なレベルで知られるようになり、好奇心を持った人たち、探求者たち、芸術家たちの注目の的となります。

 

人類の神殿の存在は、ダマヌールがエコロジー社会で精神性と政治的な活動、互助や連帯の熱望、利益を生み出す事業やサービス事業、独自の教育部門、先端をいく衛生医療構造、それ以外の様々なことを結びつけることができるというメッセ−ジを伝搬しました。

 

ファルコという人物像は、これら全てを背景として前面に浮かびでる存在です。

 

個人的にも神殿を救うために果敢に邁進していき、1994年チャンネル5の“Maurizio Costanzo”という番組のように、彼に向けられる激論の場にも参加しました。ダマヌールを彼自身の人物像で振興することを控え、むしろ画家としての活動、セルフィカの分野や人間の潜在能力に関する研究に専念することを好みました。

 

90年代の初めころからは、よりいっそう研究に没頭し、毎週木曜日の夜に行われる会談を通じて、ダマヌール市民と研究に関する熱心な対話が保たれます。毎週木曜の会談は、1988年から亡くなる数日前まで途切れることなく行われました。

 

ダマヌールはその間も継続的に成長を続け,ファルコの人生の最後の日は,ちょうど夏至の儀式にあたり,彼の夢やヴィジョンに魅せられた、クロアチア、オーストリア、ドイツ、オランダ、日本、スペインからのグループや、世界の十数国の異なった国から個人的にやって来た人々が集いました。

 

ファルコのカリスマ的な資質は、自分のミッションを強く確信し、それゆえに、そのミッションに驚異的なエネルギーと一貫性を捧げることができるというものでした。

 

彼の笑顔以外に、生き生きした機敏な知性、無尽蔵のアイディア、ダマヌールの目的に常に集中し続けることができる能力が、彼を印象づけていました。彼はダマヌールの目的にあらゆる注意を払っていました。

 

彼のこの際限のない献身が、彼と接触するようになった人々のなかに反響を巻き起こしました。彼のバイタリティや、行動したい、ダマヌールから始めて新しい世界を実現したいという欲求の伝播は必然でした。

ダマヌール市民たちにとって、ファルコはスピリチュアルガイドであり、宇宙の偉大な知識の豊富な情報源にコンタクトし、そこから有用な情報を引き出し、スピリチュアル物理学、クエジットの行程、スピリチュアルなエコシステムや儀式・イニシエーションのヴィジョン、ダマヌールのメディテーションの学校での収穫、ファルコによってつくられた世界のハートのような、新しい科学や新しい スピリチュアルな実例を生み出す天分の素質を持った人でした。

 

ダマヌールの初期には彼は総督を勤めており、集合的選択を方向づけることにも、コーディネイトすべき人々を選択することにも、積極的に参加していました。彼の信望によって彼のどんな介入も全体にとってとても大切になっていきましたが、少しずつ 、最初はコミュニティーの、やがてコミュニティーの連合体の運営から離れていきました。

 

1989年以降のダマヌールの憲法は、もはや彼の社会的機能のいくつかを表さなくなりました。彼は、ダマヌールを取り巻くたくさんの活動について詳細に報告されることをとても大切にしていましたが、人々が自分の考えに強制されたと考えることを心配して、進んで自分の意見を明らかにして助けることはありませんでした。

 

数限りない人々がプラノテラピーやプラノセルフィカによって援助を受け、彼のセミナーやコースに参加し、気さくで思いやりがあり、彼と冗長な話をしたいと願う人が多くいたのに比して、彼がそう出来る時間は常に足らないながらも、とことん積極的の応じようとしました。

 

ファルコは偉大な伝説の創造者でした。

 

それは深層な真理を説明する感情的なイメージの数々で、「遠い時のポイントから一人のエイリアンが地球に遣わされ”存在の次元の分岐”を創造し、地球上のバランスを回復させる」「起源的な人間の神が我々の宇宙に存在するあらゆるかたちの中に入るために大きな鏡がバラバラに割れた」「神々からのメッセンジャーのゴリラ エンキドウ」「起源的(以前の全て)法則が出会い、宇宙が生み出されるバール”四秒”」「常に人類の友人として存在してきた模範であるホロス神」「トリアーデ、それは様々な文明において民族達がよりどころとした神々のパンテオンの全てを再統合すること」などです。

 

世界のあらゆるエピソードや様々な歴史は、秘教主義、哲学、伝統、刷新の熱望と絡み合い、それら全てはダマヌールの体験から派生します。

 

ファルコは、「あるアイディアを信じて自由に信じ続け、そのことを発展し続けると、そうこうするうちに本物になる」というアイディアを提案しました。最初はそのことを続けるけれど,その後に諦めたりダマヌールやファルコのもとを去るのは,その人がそれを望む時なのです。

 

ファルコが豊かになったとき、数年間はピエモンテの高額納税者番付に名を連ねました。それは、彼のヒーラーや画家という活動のお陰であり,、ダマヌールの経済を主となって支える存在でした。ダマヌールが彼のお陰で豊かになったのであって、その反対ではなかったのです。

 

2007年に、地方紙が一斉に彼がイブレアの財務警備隊から税金申告もれについての査察を受けたことを書き立てました。その結果,司法から送られた調書の命令に従って,無罪を訴えて訴訟を起こすことなく、1,200,000ユーロの罰金の支払いに応じ、自分の経理を任せていた専門家の責任者を停職としました。

 

このエピソードは,大衆のイメージとして彼に屈辱を与えるものでした。ただ、彼の経理を担当する人にすべてを信頼して任せることに慣れていただけなのです。

 

とはいっても、彼の晩年には、かつてのダマヌール市民であった数人がファルコ個人とダマヌールに対して賠償支払いを求めて法廷訴訟をおこしましたが、裁判の結果は、個人的にもダマヌールとしても全てに勝訴したために、裁判所を通じて多くの賠償の支払いをうけました。

ファルコの逝去に至る過程は、あまりにはやかったにせよ、満たされた強烈で幸せな人生でした。

 

2013年3月に重い病気に冒されていることが発覚します。

 

彼の中で大きな驚きはなく、彼をよく知る人は「ヒーラーとして他の人々には多くのことができるけれど、自分自身に対しては出来ない。」と常に言っていたことを知っています。

 

ダマヌールの市民達が心配する中,自分に起こっていることを隠すことなく,三ヶ月強の間に、様々な側近の協力者達に取りかかっていた幾つかのプロジェクトを達成するために不可欠なことを伝授し、全てを脱ぎ捨てるかのように彼が所有する財産をダマヌールのために寄贈し、ダマヌール市民の中で望む人に対して、最後の個人面談を短時間ながら行いました。可能な限りすべての公式の会見は維持されました。

 

最後に彼が民族とともに肉体で過ごしたのは6月17日、毎週金曜日の夕方に行われる彼との会見を期待していたダマヌールのゲストに向けて、スカイプを通じて最後のメッセージを送ったのは6月21日です。

 

23日日曜日の朝、それは最期の反応が鈍くなる時間の前で、数分間寝室から出て来た時、「今日は...刷新の日。」とつぶやきました。

 

彼の母親ドヴィリアを含めて彼の周りにいた人々と交わす言葉はごくわずかで、その後は再びうとうとと眠り、最期を迎えました。ダマヌールでは、夏至の儀式と満月を祝うオラクルの儀式が同時に行われました。

 

23時12分,ファルコは旅立ちました。

 

ダマヌールの市民は息をこらすのを止め、別離の苦しみとかれらの心に残った豊かさの喜びに涙します。彼らの夢は継続します。