いつだって心はストリップショー

心を裸で生きれる人って、まずいない。
世界中の大人たちは、そんな恐ろしいことできるわけない、とたくさんの鎧を心の周りにつけて生きている。
それが生きていくためには当たり前だと。
そのために、どれだけ社会が不必要に複雑になっていることだろう。

大人になるとは、心を裸にすることが危険だと知り、社会的な条件づけを受け入れ、
それに染まってしまったことすら忘れ、うわっつらな言葉遣いを使いこなし、国民としての義務を果たし、社会的にきちんと生きること。
でも、大人になることは、この世に生まれ、魂が成熟し成長する事とは全く無関係・・・
どころか全く逆だよね実は。
死ンだあと、そんな重たい荷物持っていたら・・・・・
 
心を裸で生きれる人たちが、実は身近にたくさんいる。
その人たちを、私たちは、ちょっとおかしい人、障害者、等々、上から目線で呼ぶ。
 
私は、知的もしくは精神障害者と呼ばれる人たちの介助という仕事に8年前に出会った。
当時私は、転職先を探していて、そんなおり、ふと、とあるカフェのちらしコーナーに行くべきだと予感が走り、今の仕事先の募集のチラシを見つけた。
そしてあれよあれよという間に、絶対自分に不向きだと思っていた、福祉関係という世界に突入していった。
 
たしかに、出会ってすぐには、彼らからは異様な雰囲気を感じるし、暴力による危険すらも感じるし、正直言って怖かったりする。
でも、少しずつ近づいていき、なぜ反抗するのか、暴力になるのか、彼らの独特のこの表現はどんな感受性や心模様からくるものなのか、それを理解するために、お互い知りあうためにじっくりと時間をかけて出会っていく。
 
彼らの純粋性に心なごませてもらいながらも、彼らのエゴのずるがしこさに振り回されることも多々ある。
介助に疲れて上っ面な態度で接すると、情け容赦なく、鏡のごとく私の態度を様々な形で反射してくる。
介助の現場では、突然暴れ出し、何度もけがをしたし、ムカつくこともしょっちゅうだし、どうしたらこの人たちと仲良くなれるのかと悩んだりするのに、なぜそれでもこの仕事を続けるのか。
 
なぜなら、こんなに心がストリップな人たちは、他にいないから。
だから、どんなに一緒にいるのがうっとうしくって、腹が立って、めんどくさくて、辟易しても、体当たりで真剣勝負で裸の心同士でぶつかって一緒に過ごせる時間は、本当に私の人生の中では、キラキラと光る宝物のようなのだ。
 
裸の心同士。
これに勝るものはほかにない。
だから、本当に、一緒に生きていきたいと心から思う。
 
マカオーネ