むかし、色は「あか」と「あお」しかなかった。(Clione)

岩崎純一という共感覚者がいる。

共感覚の研究を独自に行い、様々な論を展開しているおもしろーい人物。

共感覚に関する書籍はたくさん出ているけれど、この人の本は特におもしろーい。

なぜかというと、論文のはずなのに、おもいっきり主観的だからです。



ボコボコと脱線しながら進む論展開の中で、(共感覚とはなにか?は置いといて)

僕が一番面白いと思ったのはこのエピソードでした。



むかし、日本には(世界には?)、「あか」と「あお」という色しかなかった。

明るい色を「あか」、暗い色を「あお」と呼ぶにすぎなかった。

やがて二つの色は細かく分けられ、様々な色がつくられた。

 

 

抜粋ではなく覚えですが、乱暴に要約するとこんな感じ。

おもしろーいのはこの「つくられた」の部分だ。

今自分たちが見ている様々な色は、自然界がつくりあげたものだと思い込んでいた僕の目から、メガネがずり落ちた。

色って人間がつくったの!?

 

氏の論展開はこうだ。人間は生まれたときには皆、色の識別なんてしていない。まさしく明るい「あか」か、暗い「あお」くらいなものだ。成長の過程で、知識として色を分別しているにすぎないのでアール…。

 

僕の脳裏には、この発想そのものがものすごく鮮烈に残っていたようで、最近読んだ本に登場した、ある民族と直結した。「ピダハン」というブラジル・アマゾンの民族だ。

  

彼らには、今も明暗を分ける程度にしか色の識別言語が存在しないらしい。驚きなのは、色だけでなく、この民族には「右」「左」の概念もなく、「過去」「未来」も彼らの世界には存在しないという…。

 

この世界は「知識」によって成り立っているんだ!

と、このとき僕はちいさく悟ったのでした。

 

そしてそのあとバチンっ!!と膝をたたき、

 

ということは!

 

いま使っている「知識」を変えれば、世界は変わる!?

と、それから僕はおおきくひらめいたのでした。おしまい。