自分の中の自分たちと折り合いをつける

 

過去の自分を振り返ってみると、『これでおしまいか!』と、絶体絶命と言うべき後がない状況を何度もくぐり抜けてきたことに、他人事のように呆れてしまう。と同時に、いったい自分はどうやってその状況を切り抜けて生き延びてきたのだろう、自分はその時何をどうやって判断してきたのだろう、という疑問が沸き上がってくる。

 

その切羽詰まった状況では、まさしく「テンパッて」いるために、およそ正確な状況判断などできたはずがないし、そういった追い詰められた困難な状況を切り抜ける秘訣など、未だに何も思い当たらない。

 

しかし何年も経って振り返ってみた時に、結果としてその時に取りうる最善の索を自分は選んできたことの不思議に気づく。もちろん痛みを伴う選択も何度となく経験した。しかし今振り返ると、その痛みはまるで良薬口に苦しと言うが如く、その時には必要な痛みであったのだろう。一体誰が、その痛みをあえて選ぶ決断をしたのだろうか?


 

ひとつ言えることは、その間ずっと、自分の内面の声、内面からの答えを聞き取ろうと必死に努力してきたということ、これだけは確かなことだと思う。そして自分の内面の声を聞くのにとても有効な方法の1つは、自分一人に閉じこもることではなく、仲間と話し合ったり単にだべったり、共に働いたり、さまざまな体験を共有したりすること。そうやって共に時を過ごす内に相手から跳ね返ってくる自分の姿を知ることは、自分の気づかない自分の姿を知るのにたいへん有効だった。自分の内面の声をなかなか直接聞けない自分は、どうやら内面の声を外に向かって発して反射させることで、自分自身が聞き取れるようにしているようなのだ。

 

もうひとつは、その反射された自分の姿を受け止める、これまた自分の内面のパーソナリティーのグループがいるのだと思えるようになったこと。パーソナリティーのセミナーでこのことを学んだことも大きい。

 

言ってみれば、外部の議会と内部の議会があって、お互いに反射しあっているようなものなのだ。自分のパーソナリティーの1つが、跳ね返ってきた自分の姿を受け入れられなくても、別のパーソナリティーは「そのとおりだ」と言っているようなもので、自分が両方の議会の存在を意識するようになってからは、どれか1つのパーソナリティーが自分をがむしゃらに引っ張っていこうとすることがなくなったように思う。そして、外部の議会もそのことを好意的に見ているようなのだ。

 

そうやって、自分の内面と外面は次第に協調できるようになってきているのかもしれない。体験を重ねることで、両方の議会も「選択」の重みをしっかりと受け止められるようになってきている、そんな気がする。

 

そのことは、自分では気が付かない間にまわりの人間関係にも影響を与えている。

自分をとりまく人々との関係性が変わって初めて、自分自身の変化に気がつくこともある。そういった「つながり」も自分自身の延長であり、自分の内面の現れであり、その全てを含めてが「自分」というものなのかもしれない。

 

自分をとりまく両院議会の存在、そのことが自分の無意識の選択を指示・支援してきた、こう思うとととても愉快だ。その議会が某国議会のように日々荒れたり揚げ足取りに終始せず、調和を持って自分をコントロールしてくれることを切に願う。

 

AYU