ニュータイプはニューエイジだったのか?

オルニトリンコによる秘教的知識のセミナーに参加された方から、こんな質問を受けました。

 

「人類の意識が拡大して、お互いに意識レベルで繋がったら、個は消失してしまうんですか?エヴァの人類補完計画みたいに?」

 

こういう質問大歓迎です。ダマヌール東京のオタク担当アユが解説いたしましょう。

 

人類補完計画というのは90年代の日本のアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のなかで、ゼーレという秘密結社が世界中を操って遂行しようとした「現生人類を滅ぼして無理やり人類を次のレベルの生命体に進化させようとする」極秘プロジェクト(らしきもの)です。物語のなかでもほとんど説明されていないので詳細は不明なのですが、次の次元やらレベルに進化するために現生人類は滅ばなければならない、というあたり、90年代のさまざまな事件を彷彿とさせる物騒な内容ですね。TVアニメ最終2話で、この結末は極めて独創的な表現で描かれたために激しい議論を呼び、その後作られた劇場版では、最後にその世界の行く末を託された主人公によって人類補完計画の完遂は拒絶されました。

 

主人公を追い詰めたさまざまな事情は決して絵空事ではなく、その時代を生きる若者にとってリアルに実感できるメタファーであったため、この物語の意味を20年経った今でも考えている人達がいることはとても興味深く、意味のあることだと思います。

 

 

似た概念がその後の2000年代のアニメ「コードギアス 反逆のルルーシュ」にも登場します。この地球とは違った歴史を辿ったその世界の皇帝が、あらゆる英知を集めてめざしたのは「ウソのない世界、個のない世界、他人と自分が融合した世界」といった言葉で表されます。これも人類補完計画と共通する、理想を語る言葉とは裏腹な物騒なイメージで、物語の主人公たちはこれを拒否します。

 

いつのまにか、アニメの主人公たちが戦う敵や権力者たちの目指すものは世界征服なんて単純なものではなく、こういった精神革命的なものを目指すようになっていました。

 

 

もうひとつ「人類の進化」にからめて日本のアニメで表現された概念に、80年代の機動戦士ガンダムで登場した「ニュータイプ」があります。簡単にいえば「人類の意識が拡大し、分かり合えるようになる」はずのものでした。というのは、その後の続編を含めてさまざまな物語で語られたのは、なかなかその理想にたどり着けない人類の苦悩だったりしたからです。

 

 

 

冒頭に挙げた動画の中で、「ニュータイプとはニューエイジのことだ!」という漫画家の山田玲司氏の解釈が紹介されますが、なるほどと思えるところもありました。

 

ダマヌールに出会うまで、スピリチュアルな世界のことを全く知らなかったアユは、80年代からアニメオタクとして生きてきましたが、その当時ガンダム総監督の富野由悠季氏がニューエイジやスピリチュアルに興味を持っているとは考えたこともありませんでしたし、そのような文脈で紹介されたことはなかったと思います。

 

 

ただ、これらのさまざまな「人類の進化、意識の拡大、個の消失と総体との一体化」といったイメージは、特定の作品や書物がきっかけとなって広がっていったというよりも、私たちの無意識下で広がっていったものが次第に顕在化して、同時進行的にさまざまな作品の一部として世界に現れるようになってきた、とは充分に考えられるのです。

 

冒頭の動画の中で、ニュータイプとニューエイジ・ムーブメントの相互関連としてシャーリー・マクレーンの名前が出てきますが、彼女の著書「アウト・オン・ア・リム」が出版されたのは83年(日本語版は86年)でガンダムよりも後であり、直接的な関連は何もないと考えられます。しかし、全く関係ないところで進行していたスピリチュアル・ムーブメントが、無意識レベルでは継がっていたというのはあり得ることでしょう。

 

 

 

ダマヌールで語られる意識の進化については、以下の表現がわかりやすいのではないかと思います。

 

「(意識の進化により)人間は水の一滴でありながら大海としての意識を持つ」

 

つまり、個でありながら全体、というべき状態なのでしょう。

個は消失しないとアユ個人は考えています。もちろん世界が滅ぶ必要もありません。

 

 

そこへ行くためにはたくさんのステップが有るわけですが、ダマヌールで現在取り組まれているのは「スーパー個人(superindividual)」という、20名位のヌークレオ単位のグループで「多数の個でありながら全体はひとつとして機能する」状態を目指すものです。そこでは如何に自らのエゴを自覚し、総体としてスムーズに機能させるかを話し合い、実行するためのリアルな取り組みが行われています。

 

 

最近見た日本のアニメに「ボールルームへようこそ」という作品がありました。

競技ダンスをする主人公は、強烈な個性を持つパートナーとの「分かり合えない、相性の不一致」に苦悩するのですが、「分かり合えなくても良い、いっしょに目指すことはできる」という結論に達することで、優勝という成果を得ることに成功します。

 

ここに最近の潜在的な思想の影響を見て取ることができます。

ヤマト・ガンダムの時代から「わかり合う、わかり合いたい」という理想が多様に追求されてきたわけですが、40年経った今でも、夫婦やカップルという最小形態から国家間というレベルまで、相互理解がより深く進んだとは思えない状態です。ある意味、より断絶が広がったとも思えます。

 

 

それでも、違いを多様性として受け入れ豊かさとする、という理想を目指すのならば、分かり合えないことも乗り越えられるはずです。共通の夢や理想を目指すのならば、世代間、地域間、国家間、個人間、さまざまに存在する違いや断絶を乗り越えて、お互いの価値観の違いを尊重しあい、受け入れ合うことで、実は自分自身のキャパシティを拡げることができるのです。「分かり合えない」ことを受け入れることは、自分のエゴをひとつ削ぎ落とす助けになるのではないでしょうか?

 

「個でありながら全」は、そこからはるか先にあって、ある日唐突に達成されるものではないでしょう。日々の共同生活のなかで、さまざまにぶつかりあいながら、コミュニティーという革袋の中でお互いに擦り合い削り合いながら、一歩一歩近づいていくものなのでしょう。そのために不可欠なのがコミュニティーという容れ物(コンテナ)なのだ、とダマヌールの創設者ファルコは言いました。

 

そのような社会生活の実験をしているダマヌールの生き方や哲学に、あなたも触れてみませんか?

 (Ayu)