その(1)の最後に引用した文章は、「指摘の教え」と呼ばれ、古代インド哲学のヴェーダーンタ学派など「永遠の哲学」と呼ばれるグループに伝わってきたものです。
このような「自分(自己)とは、心や体の体験と同一ではない」という気付きと、ほとんどセットのようにして現れるのが「絶望」です。
現代アメリカの哲学者・思想家のケン・ウィルバーにはまっていた頃、このような絶望を体験する人生の時期を「ケンタウロスの段階」と呼ぶことを知りました。
半神半獣のケンタウロスを、自分の心身と、自己の本質が分離を始めている時期の象徴と捉えて、そう名付けられています。
この段階の自己は、慣習的でごまかしのようなあらゆる慰めを受け入れることができません。まったく新しい価値観を持った自己の誕生、その超越のための脱皮は、それまでの物質的価値観に囚われた自己の「内面での死」を意味しています。それまで体験してきた物事の意味が崩壊し、すべての慰めを失うため、死に至る病、と呼ぶ場合もあります。死に至る病、それは「絶望」です。
ダマヌールと出会う前、自分はこの段階で、瀕死の状態だったのです。
自分を勇気づけてくれたカウンセラーと出会ったあとも、本ばかりをむさぼり読み、何か行動を起こそうとはしていませんでした。一生本を読んで研究者にでもなるのかな、という期待をかすかに抱いていました。
そうこうしているうちにカウンセラーから「自ら行動しなければ、棚ぼたは起きないよ!」と行動を促され、新兵ブート・キャンプのようなNLPのコースでなんとか一人で歩き出せるよう鍛えてもらい、ふらふらと歩き出した途端にダマヌールに出会ったのです。
ダマヌールのメディテーションの学校で教わったのは、表の歴史上では知られることのない、この世界の意味、人生の本質、それらを密かに伝えてきた「秘教的伝統」の存在とその力強さ!どんな本にも書かれていない、その真理を守ろうとする人たちが世界中に何千人も存在することの驚異!
ダマヌールに出会わなかったら、自分の内面からの声に耳を閉ざし、自分は人生の被害者なのだと言い聞かせ、何もかも誰か他人のせいにして、自己正当化の一生を送っていたことでしょう。
その状態から脱出できただけでも、今の自分の人生は儲けものだと思っています。
なので、もう自分には失うものなどない、目的に向かってひたすら歩き続けるしかないと思うのです。
そういう意味で、きっと誰にも絶望は訪れ、そこから再生する経過そのものがひとつのチャンスなのだと、いまとなっては静かに落ち着いた感覚でその頃のことを思いだすことができます。
なので、もし、これを読んでいるあなたが絶望を感じているのなら、それは新しい自分と出会うチャンスなのかもしれません。自分の内なる声に耳を傾け、私達に会いに来ませんか?
(もしかしたら、その3に続く)
AYU