ファルコ・タラッサコ

ファルコ・タラッサコ(オベルト・アウラウディ1950~2013)は、ダマヌールの創設者であり、スピリチュアルガイドでありました。ファルコの教えは、スピリチュアルな哲学から生まれました。ファルコは、1970年代初頭に始まったダマヌールの基盤を作り、発展させました。彼の啓蒙的で実践的なヴィジョンは、団結、共有、相互の愛、環境に対する尊厳に基づいた豊かな現実を創造しました。ダマヌールは、2005年には国連のグローバル・ヒューマンセツルメント・フォーラムから“持続可能な社会のモデル”として表彰されました。

ファルコは並外れた超人的な人物であり、またユーモアに満ちた人生のマスターであり、革新的な先駆者として、芸術と精神性に捧げられた地下の建造物として世界中に知られている“人類の神殿”の実現に、多大なインスピレーションを与えました。

境界の枠を超えた分野の研究者として、ファルコはメディテーション、スピリチュアルヒーリング、錬金術、儀式、催眠の学校を新たにスタートさせています。

彼の描いたセルフィックペインティングは、モスクワ、サンフランシスコ、ベルリンなど、多くの場所で展示されました。彼の人生の哲学的ヴィジョンに捧げられた著作の出版は30冊にのぼり、多くの言語に翻訳されています。

ファルコとは誰だったのか?

ファルコ・タラッサコは、ダマヌール市民にとって、進むべき道を知っていた旅の仲間であり、また、超能力者であり、哲学者であり、宇宙の奥底に隠された人類の偉大な知識と私たちとを仲介することができるマスターでもありました。彼のスピリチュアルなヴィジョンでは、コミュニティーや神殿を作ること、様々なダマヌールの活動など、目的の実現に向けて実用的に行動することをとても重視していました。それは、個人と各個人の内に宿る宇宙の神聖な魂とをつなぐ神の火花の覚醒へと至るまで、自分自身と人生に対する知識を深めるための方法なのです。ファルコにより生み出された精神的な道であるメディテーションの学校では、他者との対峙や、宇宙に存在する神々との対話の研究、個人的な感受性の発達、自身の選択における各自の責任、というものに基礎を置いています。彼がいつもそうであったように、ユーモアを忘れないこと。なぜなら大切なことを実現するためには、物事のユーモラスな側面も見ることができるということが重要だからです。

彼を単にヒーラーや芸術家、神秘主義者として知っていた人にとっては、ファルコはただ、並外れた、途方もなく好奇心の強い、創造的な、とても人間味ある人でした。

ファルコは、教義により固められた宗教にしようとする誘惑にかられず、力強く想像力豊かなダマヌールを作り、スピリチュアルな冒険の中で生きることを奨励しました。それこそが、ファルコと共に見始めた共通の夢、ダマヌリアンが毎日育むダマヌールのテリトリーを育んでいくということでありました。

彼のメッセージの真髄を伝える最適な方法は、ファルコを実際に知っていた人の傍で、笑顔で、楽観的に、より良い現実への希望を築き続けることです。彼がいつもその存在を通じて教えてくれていたように、楽観的であることで、どんな状況からも、たとえ最も困難な状況からでさえ、最良のものを抽出することができるのです…

この人生で実際にファルコを知っていた人たちが彼のメッセージを伝える最良の方法は、常にファルコがそうであったように、たとえどんな困難があったとしても、あらゆる状況の中から最良のものを抽出することが可能となる笑顔と楽観主義、そしてより良い現実を実現するという希望を持ち続けることです。

彼のメッセージ

ファルコ・タラッサコは、多数の言語を介して、愛、個人の成長、人々の間の連帯と互助のメッセージを提唱しました。彼には、自分自身の使命と能力を強く確信し、それに驚異的なエネルギーと一貫性をもって打ち込むカリスマ性がありました。

ファルコの微笑み、生き生きと準備された知性、尽きることのない理想の背景には、彼が全エルギーを捧げたダマヌールという夢、それにフォーカスし続けるという自らの能力に自身が感応を受けているということがありました。

この彼のゆるぎない献身が、彼と出会った人々の中に、いつも共鳴を引き起こしました。その生命力、新しい世界を創造するために行動するというと意欲が、その人たちに伝播してくことは、必然的なことでした。

彼は深い真理を説明するための、神話や情緒的イメージの偉大な創作者でもありました。はるか遠くの時のポイントから、ある宇宙人が地球に派遣され、“存在の次元の分岐”を作り、惑星上のバランスを回復させる。

宇宙に存在するあらゆる形の中に入るため、鏡のように粉々になった起源的な神。“起源的な”法則が交わり、宇宙に生命を与える“4秒”のバール…。これらはすべて、秘教、哲学、伝統、革新への望みが絡み合う、生命と世界に関する物語のエピソードであり、そこからダマヌールの体験が引き起こされます。

伝記

ファルコ・タラッサコの物語は、強烈に夢を信じていた人間、他の人たちにも夢を見る能力を与え、夢に他の人たちを巻き込んでいった人間の物語であり、そして常に存在感を放ち続けた人間の物語です。ファルコは1950年、イタリア、トリノ区バランジェロに、ドヴィリアとジョヴァンニの一人息子として誕生しました。ファルコは幼少時より並外れた特異な能力をもっていました。たとえば、仲間が傷を負った時に痛みを取り除いたり、彼らの遊びを魔法や幻覚を使って生き生きしたものにするとか(そういったことは彼の友人たちや、時には彼の両親さえも驚かしました)。そして、”ある錬金術師の物語”の中で彼自身により語られているように、常に飽きることなく自然の法則や超自然的なことの実験を行い続けていました。


1967年に、彼は最初の本「私の16歳の詩」を出版し、続いて1968年には「私の自殺の記事」という本を出版します。1969年、当時、成人として認められるには二年待つ必要があった年齢でありながらも、少年裁判所に成人とみなす許可を申請して独立します。同年、最初の結婚をし、二人の子ども、ヴァレリアとアドリアノが誕生しました。彼の三人目の娘であるラエネは、2001年に誕生しました。そのころ彼は保険代理店を開業しましたが、イタリアで最年少の保険業ブローカーでした。ファルコの研究に対する情熱は最初の仕事をすぐに放棄させ、超常現象と l’enerugia bioradianteの研究に完全に専心することになりました。25歳のときに、数人の友人たちとともにトリノにホルスセンターを設立しました。彼はすでにプラノテラピスト、超心理学者、超能力者、催眠療法士などとして知られていました。のちにダマヌールの共同創立者となる仲間たちとともにイタリア各地をまわり、数多くの集会を行い、ファルコ自身が使命であると感じていることについて語ります。それは、女性と男性が、人間、神々、自然の存在との新しいバランスを体験する、研究と実践に基づく精神的な社会を創造するということです。

ホルスセンターの設立後、ファルコの人生はダマヌールの歴史と並行していきます。1977年、コミュニティーを創立するというアイディアを抱き、上カナヴェーゼという場所に最初の土地を購入します。1979年12月には最初のコミュニティーの落成式を迎えます。1983年、ファルコは「ゲームオブライフ」と呼ばれる、人間の内面を刷新するための新たな構想を立ち上げます。そこではダマヌール市民が自身の名前に動物名や植物名を採用することとなり、彼自身もファルコという名前になりました。1992年にイタリアの検察庁イブレア支局が偉大な秘密(地下に建設した神殿)を発見した時点では、ダマヌールにはすでに数百人のメンバーが存在するようになっていました。

その後の4年間は政治的・法律的な厳しい論争が続き、1996年に人類の神殿が法律的にも認められました。それを期に、この人類の神殿によってダマヌールは国際的に知られることとなり、好奇心旺盛な旅人たち、探求者たち、芸術家たちがダマヌールを訪問するようになりました。人類の神殿はまた、形而上学的な理想と政治活動、団結に基づく各自の適性を生かした職業と生産活動、独自の教育機関と最先端の保健施設、その他の様々な事柄を結びつけることができるエコロジカルな社会として、Damanhurのメッセージを伝えています。

ファルコは、これら全ての事柄の表に立つ存在であり、個人的にも神殿を保護する役割を担いました。しかし、彼自身がダマヌールの意思決定を行うということはせず、霊的指導という役割を続けました。ファルコはむしろ画家としての活動、セルフィカの分野や、人間の潜在能力に関する研究に専念することを好みました。

彼のアーティストとしてのキャリアは、1980年に始まりました。セルフィックペインティングは、古代の叡智につながった技術で描かれ、絵との調和的な相互作用を、環境やその絵を見る人にもたらす「知性のあるエネルギー」の形を使用可能にします。

それぞれの絵に添えてある長いタイトルの中に、初期の頃の詩的インスピレーションを再発見します。彼の絵はイタリア以外にも、モスクワ、ロンドン、チューリッヒ、ベルリン、東京、サンフランシスコなど、世界の多くの都市で展示されました。

1990年代の初め頃から、ファルコはスピリチュアル物理学の分野の研究によりいっそう専心し、毎週木曜日の夜に行われた公開講義でダマヌール市民との熱心な研究に関する対話を行いました。この講義は、1988年からファルコが2013年6月に亡くなる数日前まで、途切れることなく行われました。