音楽の新しいかたちと植物の音楽

かつてレコード盤があったということを知っている世代は少々歳をとっているということになるのでしょうか?親がSP盤を持っていたことを知っている自分の世代は、その後LP(EP)、8トラック、カセットテープ、MD、CDといったメディア(音楽を再生する媒体)が登場しては消え去っていくのを何度も目にしてきました。

 

再生装置の方も電蓄、ステレオから、やがてどんどん装置の小型化が進み、日本発のウォークマンが世界を席巻したものの、やがてそれもipodに打倒され、今日ではデジタルストリーミングの時代に入ってきました。もはや音楽を運ぶパッケージとしての媒体は必要なくなり、デジタルデータとして空間を飛んで手元にやってくる時代になってしまったのです。

 

ダマヌールでもコアなファンが多いApple社も、ついにApple Musicという定額制ストリーミングサービスを提供し始め、そろそろお試しの無料期間も終わるという時期なのですが、どうにもそれを楽しめない自分がいます。マニアたちの言う、邦楽の品揃えに弱いという弱点は、洋楽やクラシック、ジャズ、ワールドミュージックを中心に音楽を聞いてきた自分には特に気にならないのですが、問題はもっと別の部分にあるのではないかと思えてきました。

 

それを意識するようになったのは「植物の音楽」との出会いです。

人間の創りだす音楽は、どこか人間にとっての「心地よさ」や「感動」へと導くといった計画性のもとに創りだされており、さまざまな音楽理論がそれを体系づけて編み出されてきましたが、それはとりもなおさず「人間性」あるいは「人間の望む音楽とは何か」を音楽のなかに探し求めてきた結果とも思えるのです。

 

かたや植物の音楽は、人間の音楽原理に合わせて旋律を発するよう機械の方で音律を設定してはいますが、どの音をどういう順番で、どういう長さで発するかは植物に任せられています。言わば、「植物の原理」によった音楽が展開されるとも考えられるわけです。

 

そこには「人間を感動させよう」という人間の原理はない、それなのに、聞く人々の心を揺さぶり、癒やしや感動すらもたらすのはどうしてなのか?

先日の自由が丘のアンジェリでの体験会では、参加者のみなさんが持参されたさまざまな植物の音楽を体験できました。そして、その多様性の深さから、これは普段の植物と持ち主さんとの間のエネルギー的交流が、音楽の幅の広さや多様性となって現れているのではないかと思い至ったのです。

 

その場の空気やエネルギー状態を織り込みながら、二度と同じ瞬間のない、リアルタイムで生み出されている音楽、これは通常の音楽の概念を変えてしまうかもしれない、新しいパラダイムの登場を目にしているのかもしれない、と、武者震いにも似た気持ちで植物たちの音楽と日々接しています。